(4)安土・桃山・江戸初期のキリスト教

キリスト教の日本上陸は、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルがインド・マラッカ経由で鹿児島に上陸したことから始まっています。ザビエルは天皇をクリスチャンにする野望をもって日本にやってきたのです。ザビエルに日本の情報を与えたのは、鹿児島生まれの倭寇であったヤジロウでした。ヤジロウは殺人を犯してポルトガル商船に逃げ込み、マラッカでザビエルに出会ったのです。日本への布教を決意したザビエルは、ヤジロウをゴアの聖パウロ学院でキリスト教の教理を学ばせて洗礼し、パウロ・デ・サンタ・フエと名乗らせました。

ザビエルは鹿児島の領主・島津貴久に謁見し、鹿児島に居住して布教することを許可されたのですが、1550年、天皇に謁見すべく京都に向かいました。京都は応仁の乱が終息した後でしたが、京都は荒れ果て天皇の存在が薄いことに失望して謁見を諦め、有力な戦国大名であった大内義隆(山口)、大友宗麟(大分)の力を借りて布教することを目論見ましたが、翌年1551年には日本を離れ、インド経由で中国布教を目指して陸路を徒歩で歩みましたが、途中、熱病で死亡(1552年)しています。

宣教師ルイス・フロイスは、その滞在記「日本史」に「都で受け入れられるものは遠隔の地方諸国で尊重されて受け入れられ、都で評価されないものは諸国ではほとんど重んぜられない」と書きましたが、永禄3年(1560)、宣教師ヴィレラが将軍・足利義輝に謁見を果たし、京都での布教許可を受けることが出来ましたが、永禄8年(1565)義輝が暗殺され京都での後ろ盾を失いました。

永禄8年、正親町天皇が日本最初のキリスト教宣教師追放令(大うす払い)の綸旨を発したことで、宣教師は京都から追放され堺に逃げ込みました。法華宗徒の竹内季治(三位)と松永弾正の朝廷工作であったと見られていますが、天皇が日本の神仏の守護者として君臨する存在であったことを認識したのです。この後、織田信長の登場によって、天皇とキリスト教宣教師の対立に大きな変化が出てくることになります。信長は天皇の意思に面従腹背する態度を取ったのです。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のキリスト教の対応をみれば、江戸幕府の「鎖国令」の発布までの事情は次のようなものでした。      

織田信長は、貿易の利益や意にそわぬ比叡山や本願寺の勢力を削ぎ牽制する目的で、キリスト教の布教や宣教師の慈善事業、奉仕活動を利用したので、基本的に好意的であったと見られています。信長はポルトガルの宣教師フロイスに対し京都市中に南蛮寺の建立を許し病人の収容を認めました。また、安土の城下に教会堂(南蛮寺)と学校(セミナリオ)の建設を許し、江州・伊吹山に薬草園を設け、ポルトガルより3000種の薬草を移植させています。宣教師は布教活動と医療活動を行いましたが、グレゴリアとルイは病人に投薬と治療を施しています。

豊臣秀吉は、当初は信長の政策を受け継ぎ、宣教師に寛大でした。ところが、1587年、天下統一目前の九州征伐の途上で、「宣教師やキリシタン大名が無数の神社や寺を焼き仏教徒が迫害されている」また、「ポルトガル奴隷商人が日本人を奴隷として海外に売っている」との報告があり、激怒しました。秀吉は布教責任者のガスパー・コエリョを召喚して日本人奴隷の貿易を中止させ、海外に売られた日本人を帰国させるよう命じました。
しかし、コエリョは「奴隷をポルトガル商人に売る日本人が悪い」と開き直り、具体的な対策を放置しました。そして、しぶしぶポルトガル奴隷商人に「奴隷購買者破門令」を発布したのは「26聖人の処刑」の10年後のことでした。

秀吉は懲罰目的で1587年7月「伴天連追放令」を布告しました。これに対し、コエリョは有馬晴信などのキリシタン大名に武器・弾薬の支援を約束して、秀吉に敵対するようにそそのかしましたが、キリシタン大名は天下人の秀吉と敵対する気力・実力がなく、この企みは実現しませんでした。

キリシタン大名  (九州の大名) 大友宗麟 大村純忠 有馬晴信
(その他の大名) 高山右近 小西行長 蒲生氏郷 結城忠正

イエズス会は秀吉を刺激することを恐れ公の布教活動を自粛しました。後進のフランシスコ会(スペインの庇護を受けた)やドミニコ会は日本文化に適合する対応をとらず、1596年のサン・フェリペ号事件で「キリスト教の布教はスペインの領土拡大の手段である」ことが露見しました。
また、日本人の奴隷売買・人身売買にはスペイン人やポルトガル人貿易商と宣教師が密接な関係にある実態を九州の現地で秀吉は目のあたりにしました。

秀吉は、キリスト教の布教活動がヨーロッパ諸国が日本を侵略する第一歩であると認識し、高い危険性があることを強く受け止めて本格的な弾圧を開始しました。そこで、1596年、京都で活動していたフランシスコ系の宣教師たちの捕縛を命じました。そして、1597年2月、長崎で26人の司祭や信徒が処刑されています。

しかし、秀吉は、これらの事件が発覚するまでフランシスコ会のペトロ・パブチスタに京都・妙満寺跡地に聖マリア教会の建立を許したので、貧民救済を目指す50人収容の聖アンナ病院(院長はレオ烏丸夫妻)が作られハンセン氏病の患者が治療を受けています。さらに、80人収容の聖ヨゼフ病院(院長はパウロ鈴木)が建立され治療が施されました。レオ烏丸、パウロ鈴木は秀吉に長崎で処刑された「日本26聖人殉教」(キリスト教徒の用語)の中に含まれる人物です。